現実へと逃避する者たち
現実から逃避するのではなく、むしろ「現実」へと逃避する。
ただし、この場合の「現実」とは通常の現実ではなく、
極度に暴力的であったり、激しかったりする「現実」です。
「家族ゲーム」は家族のもとに外からやって来る家庭教師(松田優作)を軸に展開する。◇◇家族の本来の自然な関係が弱体化し、解体へと向かっていることを、一目で印象づけるのは、この映画で最も有名で、何度も繰り返される場面、家族の食事のシーンである。◇◇この映画では、全員が横並びになって、同一の方を----観客の方を----向いているのである。互いの視線は交わることなく、並行している。このような家族は「非現実的」だとしてこのシーンを批判した者もいた。しかし、見田が述べているように、この時代、ほとんどの家族が、実際に、この映画のように、互いの視線を交わらせることなく、並行させたまま食事をとっているのである。その並行した視線が収斂する地点には、虚構のボックス、つまりテレビがある。
そういうことでしたか。あの映画は・・・
われわれは、今まで、自由に振る舞うためには、監視する他者のまなざしは阻害要因だと考えてきた。だが逆に、超越的な他者のまなざしが、自由な行為の不可欠な一部になってしまっている、とすればどうか。たとえば、Amazon.comに接続すると、私に対する推薦図書のリストが提示される。つまり、Amazon.comは、私の購買の履歴を完全に監視しており、そこからの一種の統計的な推論によって、私が読みたそうな本の一覧表を作っていたのである。それを見て、私はどうなるか。そこに記載された本を、実際に欲しくなるのである。そこのどこにも、自由の制限はない。
あるサイトを見ると、そのサイトの広告が他のサイトを見ているときに追いかけてきます。最初はびっくりしましたが、最近は慣れてきました。