別荘は買わない

つもりです・・・が先のことは誰にもわかりません。

距離は歩測で測られた

伊能忠敬の歩いた日本 (ちくま新書 (206))

伊能忠敬の歩いた日本 (ちくま新書 (206))

 

 

伊能忠敬事業家として成功した人生にピリオドを打ち、49歳で引退。そのまま楽隠居せず、なぜか55歳から地図作りにのめり込む。伊能の測量は、深川・浅草間での試行に始まり蝦夷地まで歩測した第一次測量から2度の九州測量まで、合計8回にも及んだ。

 

距離は歩測で測られた。緯度一度の距離を測定するのに歩測とはあまりにも大雑把な感じがするが、幕府との折衝に時間がかかって出発が遅れ、蝦夷地が寒くならないうちにというわけで大変急いでいた。至時とも相談の上だった。千住から津軽半島の最先端の三厩まで21日で歩いている。一日40キロである。短区間ごとに区切って歩数を数えたと思われるが、一日40キロを口も利かずに黙々と歩数を数える作業を想像していただきたい。しんどい仕事である。多分複数の人間が測って、平均をとる、区間ごとに交代する、など単行な作業を楽しく、間違いなく行うための努力がされていたに違いない。忠敬は創意・工夫で作業を改善するのが得意だった。

距離を測ったのは歩測だったんですね。

歩測であれだけ正確な地図を作製できるとは驚きです。

 

こうして伊能隊は蝦夷地を引き上げ、この後足を踏み入れていない。蝦夷地測量は間宮林蔵が引き継ぎ、蝦夷地の伊能図は林蔵の測量した数値を加えて完成された。忠敬の測量日記には記載がないが、後年の資料、すなわち九州第二次測量出発前に、忠敬の委嘱により蝦夷地に赴く間宮林蔵に与えた「贈間宮倫宗序」によれば、蝦夷地測量の途中で忠敬は林蔵にあったことになっている。

 間宮林蔵との出会い。

 

 

しかし、忠敬が行った天文観測に触れていないのは認識不足である。天文観測をしないで日本列島を測量し、同じ程度の地図ができたかとなると大変疑問である。地図作りに天文観測を使えばよいことは百年も前から知られていたが、実施に応用したのは忠敬がはじめてであった。

 

四千万歩の男 忠敬の生き方 (講談社文庫)

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