別荘は買わない

つもりです・・・が先のことは誰にもわかりません。

田んぼは私

再読です。

前回はコチラ

一つの例を見て、一般化を進める思考法はたいてい間違える - 別荘は買わない

 

頭の中にある「壁」を超える。

それこそが読書する私のテーマなのです。

 

「自分」の壁 (新潮新書)

「自分」の壁 (新潮新書)

 

 

「自分」の壁 (新潮新書)

 

 

自分を「えこひいき」している、と言われてもピンと来ない場合は、子どもが良く発する、こんな素朴な疑問について考えてみてください。「口の中にあるツバは汚くないのに、どうして外に出すと汚いの?」なかなか鋭い疑問です。確かに口の中にツバがあることは気になりません。でも、ツバをコップに溜めていって、一杯分飲めと言われたら、いかに自分のものでも普通の人は嫌がります。私も嫌です。どうしてさっきまで平気だったものが嫌になるのか。これにどう答えればいいのでしょう。なかなか、うまい答えが思いつかないのではないでしょうか。この答えは、人間は自分を「えこひいき」しているのだ、と考えればわかってきます。

 

 

家に例えて言うならば、不完全変態はリフォームです。家の基本部分は残しつつ、あちこちに手を加えて新しい家にする。一方、完全変態は新築です。古い家を一回取り壊して跡地に全く別の家を建てる。ですから考えようによっては幼虫とチョウは別の生き物だともいえます。そう考えると、次のような仮説が浮かんできます。元々、チョウの幼虫と成虫は別々の生き物だった。幼虫のほうはキャベツの上をウロウロしていて、成虫のほうは花の上をヒラヒラ飛んでいた。それがあるとき幼虫の中にチョウが住み着いて「仲良くやろうや」と話をつけた。片方は地面で一所懸命に食べて太り、もう片方はヒラヒラ飛んで生殖行為に励む、ということで役割分担を決めた。だから幼虫と成虫の形はまったく違うのだ、と。そんなバカな、と思われるでしょうか。でも、そう考えたほうがわかりやすいという例が生物の世界にはいくらでもあります。

 

学生を田んぼに連れて行った際に、「あの田んぼはお前だろう」と私は言います。すると、相手はぽかんとしています。何を言っているのだ、この爺さんは。でも田んぼは私たち自身だ、という考えはおかしなものではありません。田んぼから米ができる。その米を体内に入れて、体をつくっていく。米は体の一部になる。その米を作っている田んぼの土や水、そこに降り注いでいる日光も全部、私になっていくわけです。