別荘は買わない

つもりです・・・が先のことは誰にもわかりません。

一緒にいることそのものに意味がある

著者は世界的なゴリラの研究者。

語りかける言葉はシンプルですが、

とても説得力があります。

そういえば、そんな人(身近に)いるよな・・

それとも、私のことかな・・・

と納得してしまうのです。

 

京大式 おもろい勉強法 (朝日新書)

京大式 おもろい勉強法 (朝日新書)

 

 

京大式 おもろい勉強法 (朝日新書)

 

 

一方、京都のサロン文化はダイアログ。つまり対話です。自分の意見はもちろん主張しますが、相手の言うことをじっくり聞きながら、自分の主張を変えていくこともしょっちゅう起こります。そうやってお互いにどんどん変化しながら、ともに新たな提案をしていくのです。「おっ!それおもろいやんか」と。京大のキャッチフレーズを「おもろいことをやりましょう!」にしたということは「はじめに」で述べましたが、この「おもろい」という発想こそ、京都ならではだと思います。相手に耳を傾けさせるような意見を言う。相手に「おもろい」と思わせる。対立して勝ち負けを競うのではなく、共同作業によって、さらに「おもろい」ことを提案していくという対話。「わたしはこう考えていますけど、どうでしょう?」とある人が意見を言う。対して「いやいや、それもおもろいけど、この辺はこうしたほうがいいと思うんやけど・・・」と提案する。そこで「確かにそれおもろいですな」と言う感じでやり取りが続いていく。サロン文化のシンポジウムなどでは意見を言っているほうも、聞いているほうも、新しいことを創り上げるための共同作業だという意識があるから、どちらにせよ楽しいのです。たとえ相手の意見に総論としては反対であっても、あえて「反対」とは口に出さずに、汲むべきポイントを探す。「この部分はおもろいですな」というように、対決色を前面に出さない対話なのです。

 

俯瞰

(茂山)仙三郎さんが狂言の垣根として挙げられたのは世阿弥が言うところの「離見の見」(りけんのけん)、すなわち離れたところから自分をもう一度見るということでした。客席に立った目で舞台上の自分を見ることによって、冷静な表現を磨くのだ、と。確かに、そうした目が無ければアートも「おもろい」という発想も成立しません。

 

一週間後--- 彼らが帰ってみると、部屋はもぬけの殻。メイドが大金を持って逃走した後でした。◇◇「あれほど良くしてあげたのに裏切られた」と二人の研究者は男泣きに泣きましたが、◇◇これは文化の違いの問題だけではありません。厳しいことを言えば、メイドとの間に信頼関係を築いていたのではなく、独りよがりに相手に親切にしていただけともいえる。「親しさ」と言うのは非常に難しい問題で、親子、兄弟ですら、親しさの中にも節度が必要になってきます。そのことは頭に入れておかないといけません。今の関係が相手からはどう見えているのか、それから第三者からはどう見えているのかを常に検証していかないと思い違いが起こる。これは男女の問題に限ったことではないのです。

思い違い、勘違い、そんなこと身近にありました。

 

 

(動物行動学者の)日高(敏隆)さんは私に違う角度から風を送り込んでくれたのです。「自分が本当に大事だと思うことは繰り返し言いなさい。そうしないと人には伝わらないよ」と。その時に、ああ、だからこそ日高さんは学問をみんなで作ることができたのだと気づきました。自分が大切だと思うことをいろいろな人たちにわかりやすい言葉で何度でも語りかけてきたのだな、と。その言葉によって私の躊躇が吹っ切れたことを今でも覚えています。

 

自分が面白いと思ったこと、正しいと思ったことを、その場で自分で決定する。そのうえで積み重なった経験は紛れもなく自分で行ってきたことですから、自信をもって他人に話せます。「自分」というものは、そうした積み重ねによってつくられるのだろうと思うのです。それは誰かが筋道を作ってくれるよりも、何倍も時間のかかるノロノロした歩みかもしれません。でもどこかで自分の血となり、肉となって回り回ってそれが未来の自分を助けてくれる。

 

私たちは夫婦や恋人同士で一緒に食事をしたり、映画や旅行に行くことがありますが、一緒に何かを食べた、何かを観たということよりも、一緒にいることそのものに意味があると私はとらえています。つまり、互いの時間を合わせたということに意味があるのです。「私はあなたのために自分の時間を捧げました。これからも捧げようと思っています」という意思表示は、実は愛の誓いなんですね。
◇◇
今、対話力や対人力を磨けなくなっている人が増えているとしたら、みんながそれぞれに個人の時間を生きていて、個々の時間を擦り合わせることが難しくなっていることも原因のひとつかもしれません。それなら、自分というものをいったんゼロにしてみて、他人の時間を楽しもうとすると、案外思い切れるのではないでしょうか。自分の時間だと思っていた時間を身近な誰かの時間だと思うだけでも、意識が変わってくるでしょう?「あ、今私はあの人の時間を生きているんだな」と思うと、ちょっとワクワクしませんか?