我と来て遊べや親のない雀
なぜかわかりませんが、
一茶は土地の相続について継母と義弟と訴訟をしていました。
弟は真面目に農業をして両親を養っていました。
それでも、一茶は江戸から故郷まで何度も往復して
訴訟を継続しています。
一茶は43歳の年末
耕さぬつみもいくばく年の暮れ
◇◇
45歳になると、
鍬の罰思いつく夜や雁の鳴
◇◇
一茶は自身を「田も耕さないで食べるだけ。織物も織らないで着物を着るだけ」という「不耕の民」の典型であると常に感じていた。それゆえ一茶は生涯「不耕の民」=非生産者である自分を責め続けたのであろう。
晩婚の一茶は、生まれた子供が次々と夭折するという体験をする。その人間的苦悩を経つつ、どんな相手にも無垢な気持ちで接する子供から、田畑の耕作で労苦を共にした家畜や身の回りの小動物のしぐさにいたるまで視線がおよび、身近に感じるようになる。そうしたん中で一茶文学の珠玉の句文集「おらが春」が書かれる。そして
名月を取てくれろと泣く子哉
という名句が生まれる。
一茶は40代半ばを迎えるころ、江戸に別れを告げようかと思うようになる。その頃、信州の村々でも俳諧が盛んにおこなわれるようになっていて、自分も「江戸の一茶」として田舎の俳諧師からも一目置かれるようになり、何とか食べていけるのではという打算も働いたのだろう。そこで45歳になった文化四年(1807)、一茶は、39歳の時に亡くなった父弥五兵衛が彼に与えた遺言状を証拠に、継母との間で財産分与の争いを起こし、故郷に安住の地を確保しようとした。そのため一茶はそれ以後しばしば帰郷し、江戸との往復は6回にも及んだ。しかし継母と義弟が汗水流して田畑を増やしてきた事実や、二人の勤勉な生活ぶりを見てきた村人には、一茶の勝手な願望を素直に受け入れる余地は無かった。一茶は帰郷の都度、村人から冷たい視線を浴びせられた。それは、
古郷やよるも障るも茨の花
という句を詠むほど厳しい交渉だった。11月の雪深い故郷に戻って遺産相続の話を出せば、村人たちからはまったく相手にされない。心の底から信濃の重い雪に降られたように疲れるが、それを覚悟でまた交渉のために故郷へ向かう。そういう自分を、村人たちは寄ってたかって非難する。それは茨のように刺々しく感じるほどだ、と詠む。