倍・半分は許される。ケタ違いはいけない
再読です。
前回はコチラ。
何度読み直しても発見があって楽しい。
のっけから本当に唐突な話だが、筆者は昔から落語が大好きなのである。落語の何が好きかと言うと、まず言葉の綾(あや)が楽しい。どこか洒脱と言うか、サラッとしている。そして本質をズバリ突いているのに、その本質をそのままに扱わないで、チョイとひねったり、もじって話をする。そこが、なんとも楽しくて良いものに思えるのである。
「あてがい扶持の数」を不承不承に扱っていても、実感がわくわけではない。「数を作る」という動作を人任せにしたら、何もわからないのである。数の世界でも、自分の食い扶持は自分で稼がなくてはいけない。それには、ともかく自分で数を作り出すしかないのである。ではどうやって作り出すのか。まず対象をよく観察して、その中から数を引き出すのである。そして、自分の実現したいことの道筋にその数を乗せ、加工し、発展させるのである。数に強い人は、頭の中でそういう動作をしている。
筆者は「倍・半分は許される。ケタ違いはいけない」とよく人に話をする。例えば、何かの数が10倍も違うとしたら、それは他との関係や他への影響の仕方が質的に全く違うことを意味している。こういう違いは絶対に見逃してはいけない。それに比べたら、倍や半分くらい違うことなど、同じ穴のムジナなのである。
ザックリ・ドンブリ・ドンガラでどんどん行ったら、必ずどこかで検算をして、きちんと答えを確認しなくてはいけない。筆者たち技術屋の世界では「間違いは一度見直せば1/100に減る。二度見直せば1/10000(一万分の一)に減る」と言われている。
反歩(たんぶ)は田んぼや畑の広さの単位。
一反歩(たんぶ)=300坪=1000平方メートル
水吞百姓は仮に三反歩(1000坪)として
三反歩の田んぼのコメの収量を考えてみます。
一石=10斗=100升=1000合
「1年一人一石」とは、人間一人が1年生きるコメの量です。
速算法も大事だが、一番いいのは「計算をしないこと」である。◇◇では、それはどうすれば可能か。前にやったことがあるとか、昔見たことがあるとか、何でもいい。そういうことを徹底的に大事にして、いつでも即座に使える状態で、頭の中にきちんと保持しておくのである。すると、何かで再び見たり、聞いたりしたときには、頭はパターンマッチングで動く。そして、瞬時に答えが出せるようになるのである。筆者のいう「直観」がまさにこれである。
検証もせずに仮説を「ウソだ」と決めつけてはいけない。仮説を立てるということは、見る視点をもつということである。頭の中にまず仮説を作らなくては、見れども見えず、何もわからないのである。検証をして仮説が間違っていると分かれば、当然ながら仮説は崩れる。しかし、それでいいのである。「間違える」ということは「価値が無い」ということではない。仮説が崩れたら、また新しい仮説を立てて検証すればよい。真実はその繰り返しの中で明らかになっていく。だからこそ「仮説立証」が大事なのである。そして、仮説を立てたり、仮説を検証するときの強力な道具が、「数」なのであある。