別荘は買わない

つもりです・・・が先のことは誰にもわかりません。

ボスニア・ヘルツェゴビナ

ボスニア・ヘルツェゴビナ

一つの国で2種類の紙幣がある理由は何でしょう?

貨幣から世界を見る試みです。

 

お金で世界が見えてくる! (ちくま新書)

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ホメイニ師ハメネイ師も、頭に黒いターバンを巻いています。黒いターバンは、イスラム教の創始者であるムハンマドの血を引いていることを示しています。◇◇後継者はムハンマドの血筋を受け継ぐ者でなくてはならないと考える人たちは、ムハンマドの従弟でムハンマドの娘と結婚したアリーこそがカリフにふさわしいと考えます。彼らは「アリーの党」と呼ばれました。そのうちに彼らは単に「党派」(シーア)と呼ばれるようになります。つまり「シーア派」とは厳密は言えば、「党派・派」という意味になります。一方血筋に関係なく話し合いで実力者を選出すればいいとする多数派は、イスラムの慣習に基づいた統治をすればいいと考え「スンナ」(慣習)派と呼ばれるようになります。
◇◇
アリーの血筋を大切にするシーア派にしてみれば、ムハンマドの血を引く人物は、最高指導者としてふさわしいということになります。その一方で、これに反発する意識も、イラン国民の中にはあります。あるイラン人は、私にこう説明してくれました。ムハンマドアラビア半島出身者でした。つまりアラブ人です。ということは、黒いターバンを巻いた人たちはアラブ系だということになります。これに対して、イラン国民の大多数はペルシャ人。ペルシャ人は誇り高く、自分たちはアーリア人の子孫であるというプライドがあります。アラブ人があまり好きではないという人が多いのです。

 

ボスニア・ヘルツェゴビナは、ラテン文字(ローマ字)を使用するボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、キリル文字を使うスルプスカ共和国セルビア人共和国)の二つからなる連邦国家なので、2種類の紙幣を通用させているのです。
連邦国家の名称がボスニア・ヘルツェゴビナなのに、それを構成する二つの国家の片方の名前はボスニア・ヘルツェゴビナ連邦。非常に不思議な名前の組み合わせになっています。これはボスニア・ヘルツェゴビナ連邦が、ムスリムイスラム教徒)とクロアチア人の連邦としてまとまっているからです。つまり、ムスリムクロアチア人が一緒になってボスニア・ヘルツェゴビナ連邦となり、さらにスルプスカ共和国セルビア人共和国)と一緒になってボスニア・ヘルツェゴビナを構成しているのです。
何とも複雑な民族構成であることが分かります。これが原因で、悲惨な内戦を引き起こしたのです。

 

セルビアキリスト教セルビア正教であり、クロアチアスロベニアカトリックであるのに対して、ボスニア・ヘルツェゴビナ二は民族としてはセルビア人クロアチア人であっても信じる宗教がイスラム教という人たちが多く、この人たちは「ムスリム」(イスラム教徒)という民族名で呼ばれるようになりました。

民族と宗教。本当に複雑でわかりにくい。 

 

1992年3月、ムスリムが主体のボスニア政府は独立を宣言しました。これに対して、セルビア人たちは「セルビア人共和国(スルプスカ共和国)」としてボスニア・ヘルツェゴビナからの分離を宣言します。同じセルビア人からなるユーゴスラビア連邦軍の装備がセルビア人共和国にわたりムスリムと戦闘に入ります。また、ムスリム支配を嫌うクロアチア人たちも独自の共同体を組織して、ムスリムセルビア人たちと対立します。結局、ムスリム主体のボスニア・ヘルツェゴビナ政府とセルビア人クロアチア人の3勢力による内戦となり、自分たちの地域から異民族を追放したり、虐殺したりという「民族浄化」が繰り広げられました。

 

対立していた勢力の内、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府とクロアチア人勢力はアメリカの仲介で停戦します。◇◇1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ内のセルビア人勢力も和平協定に調印し、悲惨な内戦は終わりを告げました。
この結果、最初に書いたようにボスニア・ヘルツェゴビナムスリムクロアチア人主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人主体のセルビア人共和国(スルプスカ共和国)と言う二つの国家からなる連邦国家になりました。ただし、「セルビア人共和国」と表現するとセルビア本国との違いが不明瞭になるため、今はセルビア語の発音通りの「スルプスカ共和国」と表記するのが一般的です。

 

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ボスニア・ヘルツェゴビナ - Wikipedia