別荘は買わない

つもりです・・・が先のことは誰にもわかりません。

みせしめ

さんざん「いいがかり」をつけられたうえに、

幕府の外様大名たちに対する牽制のため、

福島正則は利用され見せしめとなった。 

 

殿様の左遷・栄転物語 (朝日新書)

殿様の左遷・栄転物語 (朝日新書)

 

 

豊臣家は大阪城とともに滅んだが、豊臣恩顧大名である正則が幕府から危険視されている状況は変わらなかった。そして、福島家にとっての破滅が訪れる。
1618年(元和四)、大洪水によって破損した広島城の一部を幕府に無断で修築したところ、これを武家諸法度違反だと咎められる。実際には、正則はちゃんと幕府に申請していたのだが、それを受け取った執政の本多正純が握りつぶして将軍に通さなかったとされている。その結果、正則は「将軍の許可を得ずに修築を行った」として罪に問われることとなったのだ。

 

正則は幕府に本丸および二の丸、三の丸の取り壊しを命じられて実行するも、石垣を少し崩した程度だったので、不十分とされてしまった。これが時の将軍・徳川秀忠の怒りを買い、1619年(元和五)ついに福島家は改易ということに相成ってしまったのである。とはいえ、この時は減封・転封止まりで、所領をすべて没収というわけではなかったのである。正則は信濃越後国内に合わせて4万5千石の領地を与えられ、息子の忠勝とともにそこで蟄居することになった。

 

改易の翌年に息子の忠勝が亡くなって所領の内2万5千石返上し、1624年(寛永元)には正則も亡くなった。その際幕府から正則の遺体を調べるため検視が送られてきたが、家臣である津田四郎兵衛が到着を待たずに火葬してしまったことが問題になった。これにより福島家は領地をすべて取り上げられてしまった。