別荘は買わない

つもりです・・・が先のことは誰にもわかりません。

「伊東さん、テレビにそれ、要らないんだよね」

著者の伊東さんは、作曲家、指揮者です。

横町のご隠居の声が心に響いてきます。

 

「聴能力!」: 場を読む力を、身につける。 (ちくま新書)

「聴能力!」: 場を読む力を、身につける。 (ちくま新書)

 

 

例えば落語の名人を考えてみましょう。一人で高座に上がっているのだから、ずっと喋り続けているか・・・と言うと、必ずしもそうではない。実は「間」があります。単に息を継ぐだけの間もあるでしょうが、それでは座がシラケてしまいますね。
爆笑王などと異名をとるような名人の高座は、ほとんど半分の時間が、実は客席の笑い声で埋まっています。相手を惹きつけ、決して話題から置いてゆかないように注意しながら、名人は半分の時間、相手のリアクションを見ている。そして、よく相手の反応を「聴いている」のです。
相手の言うことを聴かず、一方的にものを言う人がいます。立て板に水を流すような話芸であれば素敵ですが、会話であればコミュニケーションが取れません。実は「魅力的な話し方」の基本は相手が魅力を感じているか、そもそもそれ以前に、相手に話が通じているかをよく聴くこと。むしろ「受け身」の立場に立つことにあるのです。

 

練習は何のためにするか?これは「弾けるようにする」「歌えるようになる」ためだけではないんですね。一つには、自分の手作業だけで「いっぱいいっぱい」にならず、相手のことにも十分気を配る余裕を持つため、そしてもう一つは、自分自身が何をしているか、できるだけ客観的に聴き取れるだけの余裕を持つため。「自他への配慮」ができる「聴く余裕」つまり「聴能力」が持てるように、必要な準備を過不足なくしておく。練習の大切なポイントです。

 

かつて世阿弥は「離見の見」ということを言いました。舞台の上に居ながら、客席から見た自分がどのように見えるか複数の角度から意識しながら舞台に上がれ、という能役者への戒めの言葉です。実際には面をつけていますから舞台上の能役者は目を使うことができません。音で複数方法から自分自身を見つめる・・・まるでイルカかコウモリのような「聴能力」を、世阿弥は能の奥義として後世に伝えているわけです。

 

www.the-noh.com

 

実は私自身、音楽監督を担当していた番組は「奥行きのある芸」の典型と言うべきクラシックを扱ったものですから、ミュージシャンの良心を代弁する立場でいろんな主張をしました。
リハーサル時間が少ないとか、きちんと練習させろとか、当たり前のことばかりでしたが、広告代理店の担当者などから「伊東さん、テレビにそれ、要らないんだよね」的にあしらわれ、当時はずいぶん悔しい思いもしました。
でも今、何十年か経って落ち着いて考えてみると、テレビ番組の収録で奥行きのある芸をやっても、そもそもほとんど作品として残らないし、お茶の間で視聴する時は何も伝わらないんですよね。
私が頑張って主張していたのは、談志師匠の言う「横町のご隠居」の呼び声と同じように、音楽がライブで演奏される世界で、良心的なミュージシャンが守るべき一線ばかりだったと思います。

 

「横町のご隠居さん学」をめざして