終わっていない満州
満州移民政策。
のちに中国残留日本人やシベリア抑留といった問題を引き起こします。
適当な口実が見つからなければ、つくればよい。そんな論理の下、柳条湖事件が引き起こされた。1931年9月18日夜、奉天(現在の潘陽駅)から北方約7.5キロの地点で満鉄線が爆破された。それは、日本の生命線を絶つ行為であり、中国は日本に挑戦状を叩きつけたと報じられた。しかし、事件直後、爆破されたはずの線路はほぼ無傷のまま残り、何事もなく急行列車が通過した。関東軍参謀の石原莞爾や板垣征四郎らによる自作自演の謀略だった。
「満州農業移民十講」で、橋本は「高橋という頑固な爺さんがおって財布の紐を固く締め、なかなか十分に金を出してくれない、この人は満州移民が嫌いで、どんな親しい者と話をしていても移民の話になると、そっぽを向いてしまって受け付けなかった」と苦々しく振り返った。◇◇そんな強固な砦が2.26事件によつて突然なくなった。◇◇高橋の死によって、軍の威を借りた移民推進派の発言力が一気に増した。妄想に等しかった満州移民が一気に国家事業へと変貌を遂げていく。
ダルマさんの見識の高さがうかがえます。
ソ連参戦と満州崩壊の結末を知る現代のわれわれから見れば、なぜ戦争末期に満蒙開拓団を送出したのか、死に追いやるようなむごい行いをしたのかと、素朴な疑問が生じる。しかし、当時の人たちの感覚からすれば、渡満は一つの選択肢だった。満州には空襲もなければ、本土決戦の不安もなかった。日ソ中立条約があり、無敵の関東軍がいる。そんな安全神話を信じ切っていた。戦争末期には、空襲で家屋を失った戦災者たちが、戦禍を逃れたい一心から満蒙開拓団として日本海を渡る例もあった。