別荘は買わない

つもりです・・・が先のことは誰にもわかりません。

他人の感覚に寄り添えるかどうか

 ヤマザキさんの感性が、「気づき」を与えてくれます。

男性論 ECCE HOMO (文春新書 934)

男性論 ECCE HOMO (文春新書 934)

 

 

古代ローマ人にとって、お湯に浸かるのは生活の要でした。しかし、現代のイタリアで、あるいはそのほかの国でも、湯船につかることはなかなか叶いません。浴槽の中で体を洗うという概念ではなく、リラックスのために湯船に浸かるという文化を持つのは、世界を見渡しても日本だけだと思います。

 

彼らは決してゴージャスに暮らしているわけではありませんが、もともと広い土地を持つ古い家なので、お金の為にしたくない労働を追い詰められてやる必要なんてないと、はっきりしているのです。
つまりみんな、人生にお金は必要だけど、お金のために自分を犠牲にしてはもったいないと考えている。夫婦の時間や食事を囲んだ語らいこそが、人生を楽しむことだと信じて疑っていません。

ヤマザキさんの夫はイタリア人。その家族のはなしです。

前提として「広い土地を持つ古い家」とありますが、

たとえそんなものがなくても人生観が変わることはないでしょう。

 

イタリアの映画といって忘れてはならない存在とは、ヴィスコンティの映画に出るところから俳優としてのキャリアをスタートさせた、マルチェロ・マストロヤンニでしょう。
◇◇
私が特に好きなのが、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「昨日・今日・明日」という作品です。

◇◇
私は大学でイタリア文化を教えていた時、必ず学生に「まずこれを見ておいて」と勧めていました。イタリア国内の地域差、イタリア式男女関係、宗教の問題、歴史性。あれほど大ヒットとなった娯楽エンターテイメント映画に、イタリアの文化の特徴が如実にあらわれているのが本当に素晴らしい。

 

 

昨日・今日・明日 [DVD]

昨日・今日・明日 [DVD]

 

 

昨日・今日・明日 HDニューマスター版 [DVD]

 

 

成熟による美。いま日本で軽んじられて、ほとんどないことにされているのが、この美の価値観ではないでしょうか。
◇◇
アニメ界でもなぜか、あどけない幼女的な表情の-------髪はツインテールでパンツの見えそうな学生服、おっぱいは異常に大きくて身体ははちきれそうだったりもする------女の「かたち」というものがはびこっています。それと一筋縄ではいかない大人の女である峰不二子とは一線を画している。
◇◇
そしてもっと問題なのが、そうしたおもに男性側から作り上げられたいびつな美の価値観を内面化して、それに合わせようと躍起になる女性が多いということ。
◇◇
男性が大人になればオートマチックに女性も解放されると思うのですが、多くの日本の女性が「若さ」という指標に取りつかれているように見えるのは、個人の問題のようでいて、実は構造上の問題です。

 

いい年をした男性がAKBなどのような子ども系の女性に熱をあげ、

いい年をした女性はいつまでたってもジャニーズ系の男ばかりを追いかける。

そんな男女が身近にいることは事実です。

やはりまず男性が大人にならないと構造は変わらないでしょうね。

 

例えば定評ある番組のひとつにNHKの「世界ふれあい街歩き」というものがあります。

◇◇
しかしながら、実際にその海外の土地を歩いてみるならば、また全く違う感触が得られるのが旅というものです。当たり前ですが、土地にはそれぞれ固有の匂いがあるし、日差しや湿度や温度があるし、言葉は通じなくてコミュニケーションにどぎまぎするし、下手をすれば高山病にもかかってしまう。時にひどい目にあいながらも、自分の五感と脳がフル回転する体験、自分の身体の輪郭がくっきりと感じられる体験、それがリアルな旅の醍醐味と言えます。
◇◇
テレビ番組とは、面白い所だけをつめこんだパッケージです。メディアは一部分しか伝えないし、見ている人を基本、甘やかします。だからこそ、あえて言いたいのです。テレビやネットで知ったことがすべてではない。バイアスをかけながら、そのバイアスを見えないように偽装するのもメディアは上手です。ネットは、テレビ以上に利便性を高めた素晴らしい文明の利器ですが、調べるだけ調べて、わかっちゃった気になるのは危険です。
ときに、高山病になってください。他人の体臭にうんざりしてください。スムーズにいかないコミュニケーションに泣いてください。
それが世界だから。

 「世界ふれあい街歩き」結構好きです。

 

イタリアの強さは、何といってもみんなが自分好きであることにあります。「生まれてきて俺バンザイ!」が基本で、外になどなびかない「自分の鏡」を持っている。
◇◇
どんな辛酸をなめても、悲しみに酔いしれることもできれば、自分で自分を慰めることもできる。自分で自分を演出できるわけです。他人の目も、体裁も気にしない。スタイルやかっこよさなんて考えないからカッコいいんです。かたや日本人の女の子たちがヒラヒラの洋服を着るのは、自分の鏡ではなく、他人の鏡を気にするから。でも、自分で自分を映す鏡を持っていれば、外がどうであろうが関係ないわけです。
◇◇
自分基準のモノサシ、ということでいえば「時間」もそうかもしれません。日本に暮らしていると、電車がきちんきちんと時間通りに来ることが当たり前になります。もちろん遅れるより、正確であるほうが上位の価値に見えます。
◇◇
時間とは、本来もっと伸び縮みするものではありませんか。
◇◇
なにも、時間にルーズな人間になれと、と言いたいわけではありません。でもアジアに行けば、日本とは異なる、人々の時間に対する感覚をうかがい知ることができます。さらにキューバやブラジルといったラテンの国を体験すれば、時間の正確さごときで人の信頼を測ったりはしない人種もいるということが明確になってくる。時間の約束というのはあくまで行動の合理性を重視したもの。それが乱れたところで壊れるような関係は元々そんなものだった、という解釈になる。
◇◇
日本にいるだけでは「考えもしない問い」に身を置くこと。グローバルな視野、などと大げさに言わなくとも、他人の感覚を自分のモノにできる人は単純にかっこいい。他者への寛容性の第一歩は、この他人の感覚に寄り添えるかどうかだと思うのです。

 

他者への寛容性についていえば、

モンスター・○○と言われる人たちが最近話題になることが多くなりました。

水に落ちた犬を叩き過ぎる事例が増えているような気がします。