別荘は買わない

つもりです・・・が先のことは誰にもわかりません。

お天道様に向かって堂々と話せるかどうか

 

回復力~失敗からの復活 (講談社現代新書)

回復力~失敗からの復活 (講談社現代新書)

 

 

周りの評価に鈍感でいたほうが良いという理由の一つが、「正論」の存在です。
何か失敗が起こると、必ずこの「正論」を振りかざして、失敗した人を責め立てる人が現れます。「もっと注意すれば防げた」とか、「管理の問題云々」というのがそれです。
しかしこうした正論の通りに行動したところで、実際には失敗が完全に避けられることはほとんどありません。なぜなら、こういう場合に使われる正論の多くは、きちんとした分析によって導かれたものでなく、単なる建前論になっているからです。正論とは名ばかりで、その人の主張を正当化するための詭弁であることもあります。

 

雪山や砂漠などで取り残された遭難者が、奇跡的に助かったということが話題になったりします。彼らは何故生き延びたのか。
◇◇
目の前にある高い壁のてっぺんを見ていると、とても乗り越えられそうに思えません。しかし、その途中には目印になるポイントがいくつかあります。自分が困難な状況にいるのは事実であっても、とりあえずは身近なポイントを目標にして行動するのです。そのようなことを繰り返しているうちに、彼らは乗り越えられそうに思えなかった高い壁を乗り越えてしまったのです。

そんなドキュメンタリー映画がありました。

あまり目標が高すぎると気持ちが萎えてしまうのは確かですね。

 

もともと人の判断は、その場の雰囲気やその時々の空気に流されやすいものです。過小評価や過大評価になったりするのもそのためですが、よそからの影響を受けない絶対的な基準があると判断がぶれなくなります。この基準で失敗を見ると、甘くも辛くもない、ありのままの評価ができるのです。
それでは失敗を見るときの「絶対基準」は具体的にはどのよなものでしょうか。これは古臭い言い方かもしれませんが、結局は「お天道様に向かって堂々と話せるかどうか」ということではないかと私は考えています。

 

 

赤福の不正の中身は、製造過程で余った餅を冷凍保存し、実際に使う段で解凍したその時点を製造年月日としたというものです。また、売れ残って回収した商品を餅と餡に分け、自社内で材料に再利用したり、関連会社へ原料として販売していたことも問題になりました。これらの行為は確かに消費者の信頼を裏切るものです。しかし、それによって健康被害が生じたことはなく、その危険性も低かったことを考えると、本当にあそこまで大騒ぎする必要があったのか疑問が残ります。