色褪せない
この集団認識のあり方は、日本人が自分の属する職場、会社とか官庁、学校などを「ウチの」、相手のそれを「オタクの」などという表現を使うことにも表れている。
たしかに言ってますね、「ウチの会社」って。
外国に滞在しているインド人・中国人・ヨーロッパ人たちが現地において、悠々として仕事をし、落ち着いた生活をしているのは、実にこのネットワークの存在にあるのである。
日本人の場合、このネットワークが往々にして弱く、頼りにならないのである。
これ、今でもそうでしょうか?
こうした日本人的一方所属というのは、世界でもまことに珍しい。イギリス人も、イタリア人もみな、どちらかといえば中国人的複線所属である。彼らにしてみれば、一本(単一の関係)しかもたないなどということは、保身術としては最低という言うわけである。
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なぜならば、「場」によって個人が所属するとなると、現実的に個人は一つの集団にしか所属できないことになる。その「場」を離れれば同時に、その集団外に出てしまうわけであり、個人は同時に二つ以上の「場」に自己をおくことは不可能である。これに対して、「資格」によれば、個人はいくつかの「資格」を持っているわけであるから、それぞれの「資格」によって、いろいろな集団に交錯して所属することが可能である。
わかりますけどねえ。日本人はどうしてもねえ。
インドに行って驚くことは、貧しい下層カーストの人々が、少しも日本の下層の人々のように心理的にみじめではないということである。これは、そのカーストに生まれれば、死ぬまでそのカーストにとどまる--競争に敗れたという悲惨さが無い---という安定した気持ちと、同類がいて、互いに助け合うという連帯感を持ちうるためと思われる。
江戸時代の士農工商ようなものでしょうか?
実にここに、異なる集団の意見統一の困難さが存在するのである。「タテ」の折衝は、ある意味で単純に帰着しすぎるのであるが、「ヨコ」の折衝がこのように非常に困難であるということは、X集団的構造を持つ社会においては、「ヨコ」に働くメカニズムが不在で、もしあったとしても、それが機能しにくいということに求められる。
ヨコの連携って、本当にできないのです。情けないくらい。
一定の集団が他のものと接し、話し合いをするような場合に、誰もが口にするのは、「我々の意見をまず統一しておかなければ」ということである。集団の結束が固く、機能が高いほど、集団の個人に対する社会的強制は強くなる。言い換えれば、それだけ個人の自由な思考・行動を規制してくるのである。
他の人の顔色をうかがいながら、空気を読む努力をしながら毎日生きています。
論理を容易に無視するこの相対的価値観は、現実の日本人の人と人との関係、やり取りに如実に発揮されている。そして、特に知的な活動において致命的な欠陥を暴露するのである。そのもっともよい例の一つは、日本人による「批評」の確立の困難さであろう。
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作品自体について論じているのに、ちょっとほめると、「あいつはオレに好感を持っている」ととられ、ちょっとけなすと、「あいつはケシカラン奴だ」とくる。作品を飛び越えて人対人の直接の感情的出来事になってしまう。
そう、昔こちらのカバーで読みました。
50年近く経っているのに内容は色褪せません。
素晴らしい。