対象喪失とどう向き合うか?
結構深い。もう一度じっくり読みたい。
「打たれ弱さ」「他責的傾向」「依存症」という三つの問題の根源に横たわるのは、同じ病理である。自己愛的イメージと現実の自分とのギャップを受け入れられないわけだが、これは「何でもできる」という幻想的な万能感を捨てきれない為である。
親がわが子に期待をかけるのは、親の期待が、親の自己愛---とりわけ傷ついた自己愛---の再生に他ならないからである。親が、自らの果たせなかった夢をわが子に託して実現させたいという欲望を抱いているからこそ、過剰な期待をかけて、時には暴力に訴えてまで頑張らせようとするわけだ。◇◇この欲望が意識されていることはむしろまれで、親の意識のうえでは、あくまでも「この子の将来のために」とか「子どもの幸福を願って」といった善意のヴェールがかけられている。◇◇その典型が、かつての人気アニメ「巨人の星」の星飛雄馬の父である。
大人になるということは、挫折に挫折を繰り返し、親の期待とも折り合いをつけながら、自らの卑小さを自覚してゆく過程である。言い換えれば、自己愛の傷つきを積み重ね、万能感を喪失してゆくことによって、はじめて等身大の自分と向き合えるようになる。こうして、自らの立ち位置を認識する、昔ながらの言葉でいえば、「身の程を知る」事によってしか、地に足のついた努力ができるようにはならないのだ。
大人になるというのは、「なんでもできるようになること」ではなく、むしろ「何でもできるわけではないということを受け入れていく」過程だからである。
人生において、失恋や別離、受験や仕事の失敗などの対象喪失に遭遇することは避けがたいが、このような対象喪失の後に起こるのが「悲哀反応」である。その典型が、愛する人を喪うという「喪失体験」の後に起こる、嘆き悲しみ、落ち込んで、何をするのもおっくうになるような反応だ。
この喪失の痛みを、家族、縁者、友人などで共有し、死者に最後のお別れをしながら対象喪失を受け入れていくのが、いわゆる「喪の作業」である。そして、この作業を身近な人間が一緒に引き受けるために、重要な役割を果たしていたのが、昔ながらの葬儀や法事などの儀式なのである。
なぜ大人になれなくなっているのか?ズバリ言えば、「対象喪失」を受け入れられないからである。対象消失を受けれられないがゆえに、なかなか「断念」ができず、自己愛的イメージにしがみ続けるため、現実の自分と折り合いをつけるという、大人の振る舞いができない。
考えさせられる重い課題を提示してもらいためになりました。