原題は「抽象思考の庭」
不思議な本。何となく引き込まれてしまう。
人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)
- 作者: 森博嗣
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2013/03/15
- メディア: 新書
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僕の友人には自殺してしまった人が数人いる。周囲のだれも彼らを救うことができなかった。多分、彼ら自身しか、救えなかっただろう。多くの場合、自殺する人の思考は、主観的であり、具体的過ぎる、と僕は感じている。
「~のような」というよく使われる表現が、抽象的なものを示す機能がある。たとえば「バールのようなもので金庫を壊されていた。」など。
子供のころに読んだ物語や、最初に読んだ小説は、よく覚えているものだ。読むのに時間がかかったけれど、自分の中でイメージをしっかりと描いて受け止めている。
しかし、だんだん文章が早く読めるようになる。これは、読む能力が増したように錯覚する人が多いが、そうではない。言葉が表していたはずの元のイメージを頭の中で展開せず、ただ言葉を鵜呑みにして処理するようになっただけだ。こういった状態で読んだものは、次第にインパクトが薄くなるし、すぐに忘れてしますようにもなる。本をたくさん読む人、読むのが速い人ほど、この傾向があるように観察される。
確かに小さいころは、しっかり何度も読み直し、イメージしました。
今は多読し、速読していますが、言葉を鵜呑みにしている感は否めません。
ここではっきりと宣言しておく。何を考えても、いけないということはない。考えることは自由だ。ただ、考えたことを全て、そのままアウトプットしてしまうと何かと問題が起こる。その点は注意をすべきである。
他人を分析することは大切だが、その分析結果を全面的に口に出さないほうが良いし、その分析に基づいて行動するときは、あくまでも仮説だということを忘れてはならない。もし人に話したかったら匿名にして、それこそ抽象的に語るべきだ。また、個人に対して述べるときには、その人を貶めることがないように細心の注意を払って表現する必要があるだろう。自分では「あくまでも架空の型だ」と認識していても、話を聴いた人は、あなたがその型で人を決めつけて見ていると判断しかねない。
そう言えば某人をみんなの前で個人攻撃したことがありました。いずれしっぺ返しをうけるでしょう。反省し、肝に銘じて、二度としません。
「バール」だけを探していた人に、バールではないものを見せても「なるほど」とは思わない。「バールのようなもの」を探していた人は、自分では見つけられなくても、人が「これなんかどう?」と示したものに、「あっ、それだ」と気付く。
「できるだけ拘わらないようにしよう」と思い立ってから二十年になる。◇◇ほんの小さな例だが、あるとき、もう年賀状を出すのはやめよう、と思った。それまでは毎年何百という数の年賀状を出していた。でも何のためにこんなことをするのか、これが自分の人生にどう関係するのかを考えて、あっさりやめてしまった。その分の時間を僕は得たことになる。失ったものもあるかもしれないが、何一つ問題は起こっていない。
そんなこと可能だろうかということをやっていますね。でも裏で家族がフォローしているかもしれないし・・・。躊躇します。
爆発的に売れた本は一冊もないが、どれもそこそこ売れたし、短期間に沢山の本を書いたため、印税として多額の収入を得た。気が付けば貯金は一生かかっても使いきれない額になっていた。それで、研究職からも、作家業からも引退することにした。◇◇五十一歳になったときだった。
では毎日何をしているのか。毎朝6時に起きる。◇◇といったガーデニングをする。これで、だいたい午前は終わってしまう。その後は工作室かガレージで、何か作る。木工も金属工作もする。◇◇平均すると、ガーデニングも工作も一日に五時間くらいずつしているだろうか。◇◇住んでいる地域は、非常に冬が厳しい。雪は少ないが、気温は氷点下二十度くらいになる。だから冬はだいたい工作室で過ごす。◇◇旅行に出かけたりすることもめったにない。TVも映画も見ないし、本も、専門書や雑誌を読むだけだ。(小説は読まない)◇◇ほぼ、毎日これを繰り返している。◇◇思考は、自由で常にダイナミックだ。しかし、具体的な生活は、質素で無変化であっても構わない。むしろ、そのほうが健康を維持しやすい。健康は思考を支えるためにある、と僕は思っている。
もしかすると、私の目指す生活スタイルのヒントになるかもしれません。
僕は仕事から引退したので、「暇人」になった。世捨て人と いっても良いくらいである。◇◇僕がそういう管理をしているのは、庭の一部の平地だけだが、面積は5000平方メートル(0.5ヘクタール、約1500坪)くらいあるので、毎日やってもやり足りない。
庭の手入れから連想したことではあるけれど、抽象的思考の場は、まさに「自分の庭」のようなものだ。◇◇学び方、考え方といった具体的な手法を数々取り入れたところで、それはその場限りの、つまりお金を払って庭師さんに作ってもらった庭園であって、自分が作り上げたものではないため、やはり次第にアイデアは枯れ、土地は痩せてくる。毎日こつこつと雑草を取っている(抽象的な思考を続ける)人の庭には、どう頑張ってもかなわない。
ただ、僕の場合は、引用を極力しないことにしている。誰かの意見を直接参考にして考えたわけではないし、具体的事実にも無関係な、抽象的なことを話題にするように心がけているからだ。
情報処理能力に長けた現代っ子は、どうも引用が多すぎるし、中には引用だけして、自分の意見がかかれていないものも散見される。
このブログは引用だらけだ。